人間は歴史的な存在であると、ある哲学者が言いました。自分たちがこの世にあるということがいったい何を意味するのか、それを私たちは最後まで説明しとおすことができません。座標そのものである人間は、せいぜい世界全体の意味を限定的に捉えることしかできないのです。
しかし、捉えうるもの以上であるこの世界の中で、私たちはこうして自由意志を授けられている。運命の前に立たされ、何かに立ち向かう機会を与えられている。視野に縛られているからこそ具体的で、だからこそ唯一の存在でもあるのです。そこには一つの問いかけが存在しています。
必然性という問いかけです。なぜ自分なのか、なぜ私なのか。そこに星々のメッセージがあります。ただしその私とは、鏡に映っている人間ではありません。もっと広くて大きな、他人や世界まで含めた自己なのです。その対象が大きければ大きいほど自分という存在も確かなものになるでしょう。
自己の領域をどこまで広げていけるか。人類はそれを愛と呼びました。しかしこの内なる声は無視し続けると「聞こえなく」なります。聞こえなくなった自我は暴走し、幸せを求めて必死に駆け回ります。自己を所有した人間はいずれも悲しみに生きていくことになるでしょう。故郷への道はとざされ、地上の亡霊のように人生をさまようことになります。
そうさせてはいけません。教育とは大いなる自己への呼びかけです。人間のうちに形成され、作用しつつある静かな力。その声を聴くために問いかけるのです。時代を飛び越え、そこに永遠の響きを打ち立てる。そうして初めて私たちは人間そのものを建設することができるでしょう。
真理の予感を取り戻し、生まれもった本来の目的を育成することに共同体の悲願があります。そのために必要なのは集中力です。沈黙を友とし、思索の導きに従い、ただ自分という事実に気付くだけでいいのです。
考える力とは洞察力のことです。それはあらゆる時空を越えて響きわたる宇宙の号令です。自律した思考だけが理想を創り出すことができます。その理想だけが、人々に自由を与えることができます。

人間を育てる教育を